気まぐれ日記 2015年11月

2015年10月ここ

11月1日(日)「組長業務から入院サポートに講演準備・・・の風さん」
 やや寝不足で起床。
 組長業務のため町内会の集会所へ行った。集金した区費や赤い羽根募金、震災時のための家族調査表などを提出した。受け付けに不満があったので、区長に訴えておいた。本質的な原因は、高齢化していく中で、町内会の業務が増える一方だからである。
 それが終わってすぐ、防災部員としての義務である、発電機や汲み上げポンプの定期運転に参加した。汲み上げポンプが不具合で停止していて、聞くと、バッテリが上がっているという。エンジンをかけて貯水槽から水を汲み上げるポンプだが、発電機は装着されていないという。ということは、しょっちゅう訓練や定期点検で使用していると、バッテリはすぐに上がってしまうということだ。維持するのは大変である。
 今日ひとつ知ったことは、町内の各所にある消火栓は、震度5以上の地震があると元の水槽が止められるため、使えないのだという。笑ってしまった。
 震災時にもし火災が発生したら、おそらくあちこちで発生するわけで、汲み上げポンプでは間に合わないし、そもそも消防車が足りなくなって、119番しても来ないだろう。救急車も同じことだ。
 自然災害のために完璧な備えなんて無理である。現在の態勢はできる限りの範囲だと認識しておけばそれでよい。
 それからワイフと名古屋へアクアで出かけた。長女のマンションに寄って、長女と荷物を積んで病院へ。
 駐車場にアクアを置いて、先ずはランチ。近くのイタリアンでスパゲティを食べた。舌炎の私は痛くないギリギリの食べ方。でも、美味かった。
 その後、外泊から戻ったというイメージを作り、病院の個室に入った。今度こそ長女は本格的に入院である。
 荷物を解いて、病室が整った。ここまでは、ほとんど旅行気分だった。長女にこれからの不安を抱かせまいと、あれこれくだらぬ冗談を連発した。
 夕方になったので、私たちは帰宅するため、病室を出ようとしたが、突然、駐車券が行方不明になって慌てた。信じられないことに、お菓子の入った箱の中にあった。ワイフが何気なく入れてしまったらしい。
 駐車場を出る頃、長女から電話がかかり、病室に忘れ物をしたことが分かった。病院の玄関でそれを受け取り、ようやく家路についたが、どうも私たち夫婦は認知症気味である。
 私の夕食はまた情けないものだった。ホットミルクに長女が作ったパンをちぎって浸して食べるというもの。これなら飲み込める。
 昨夜途中まで作ってあったシンガポールでの講演2件と週末の慶應大学での講演の事前資料を仕上げ、メール添付で事務局へ送った。
 明日も朝が早いので、水曜日の講義の準備は、明日病院でやれるように準備して就寝した。

11月2日(月)「長女の手術が無事終了・・・の風さん」
 6時起床。雨が降っている。寒いな。ホットミルクとゆで卵で朝食。まだ舌炎が不安。
 キャメロンで出発。有料道路を突っ走るが、通勤時間帯で非常に混んでいる。早く着きたかったので名古屋高速に乗ったが、事故渋滞にはまってしまった。結局、予定通りの時刻に病院に到着した。
 長女は、昨夜が下剤がまだ効いていないことと、点滴や採血の不安でパニック状態だった。
 昨日に続いて、今朝も忘れ物をした。ダイニングのテーブルや下駄箱の上に順番に置き忘れてきた。こんな緊張状態でもボケはしっかり顔を見せる。
 10時ころ、主治医の説明が診察室であった。きわめて明快な説明で、心配した責任逃れの説明(リスクの事前説明に終始すること)は全くなく、むしろ長女と私たちの不安を取り除くための話し方が感じられて、とても好感がもてた。あと、別々に、手術に立ち会う看護師や麻酔医も病室に顔を出し、長女の不安が少しでも減るように説明していた。これも、とてもよかった。
 トイレ通いと点滴で大変な苦労があったが、何とか手術に臨める態勢が整った。
 12時少し前に、病棟の担当看護師の案内で、徒歩で手術室がある新棟へ向かった。
 手術室の外に家族用ラウンジがあり、私たちはそこで待機することになったが、別れるとき「さようなら」と言った長女の言葉が胸に刺さった。若いなりに覚悟を決めていた面があったのだろう。
 主治医が予告した通り、予想より早い午後2時だいぶ前に手術は終わり、取り除いた腫瘍を見せて、内部の話をしてくれた。良性だと思うとのこと。
 しばらくして、ストレッチャーに乗せられた長女が出てきた。主治医や看護師の他に男性スタッフが二人ついていた。長女の顔を見て、生きていることをあらためて実感した。とにかく生きて戻って来てくれたことがうれしく、涙があふれた。
 病室に戻ってからも術後の処置が色々あって、3時頃に「何か食べて来るから」と言って、私たち夫婦は病室を出た。
 外は寒そうだったので、病院内のドトールに入って、ワイフはジャーマンサンド、私はかぼちゃのタルトを食べた。本当にホッとしたし、あらゆるものに感謝したい気分だった。
 夕方までに酸素吸入の管はとれたが、まだあまり身動きできる状態ではない。長女は痛みで苦しそうだったが、ベッドの中でも色々なものが取れるように並べて5時過ぎに病院を後にした。
 帰りも道路は混んでいた。キャメロンで軽快に突っ走った。
 帰宅してからがまた戦争状態だった。
 先ず、昨夜送った資料に対する返信を確認した後、今度は、明後日の講義の準備である。今夜中にほとんど終えておかないと、明日もまた病院に行くのだから。
 夕食は久しぶりに噛んで食べた。スパゲティーにサラダにスープにレーズンパンだ。食後のコーヒーも堪能した。
 もろもろの雑用を終えたのは午前2時半だった。これから入浴だ。

11月3日(火)「階段からあやうく転落死・・・の風さん」
 今朝も寝たのは3時だが、起床は9時起床と遅かったので楽だった。久しぶりにたっぷり寝た気分。
 病院へ出発するまでにやることは、昨夜睡眠中にシミュレーションしてあった(笑)ので、その通り、駆け足で実行した。先ず、2つの資料を印刷して……。
 普通の人のように12時に昼食を摂って、ワイフとキャメロンで出発した。途中2ヶ所で長女の好きなスイーツを買った。
 昨日は雨が降って寒かったが、今日は快晴で、キャメロンの窓を開けて走ってちょうど良い感じだった。絶好のドライブ日和だが、目的地は病院なので浮かれている場合ではない。
 3時過ぎに病室に入ると、長女が青ざめていた。予定より早く点滴の管が外れていて、長女の話によると、管を通じて血が逆流し始めたという。針を刺してある血管が破れたのかもしれない。長女の血管は細くてもろくて、点滴には不向きなのだ。看護師も非常に苦労している。
 いずれにせよ、これですべてのチューブが外れたので、積極的に歩行しなければならなくなった。しかし、トイレに行く時の様子は、本人いわく「老婆だわ」の通りで、10年近い前に私が手術した直後と酷似していた。
 6時の夕食も一緒にいることにして、近くのドラッグストアやコンビニで買い物をし、長女の嫌いな病院食のおかずをもらったりして、結局、7時半まで病院にいた。最後は長女もだいぶ元気になっていた。
 昨日より遅い家路になったせいか道路が空いていて、地下鉄や電車を利用するよりかなり早く帰宅できた。
 仏壇の両親の位牌に長女が元気になってきたことを報告した。
 就寝までの時間が私の今日2度目の作業時間だ。明日の非常勤講義の準備を真っ先に完了させた。
 今朝の続きをやった後、週末の講義の資料作成に手を付けた。これはかなりの時間を要する。
 午前零時を回ってから、最大の懸案事項である片付けに取り掛かった。退院して長女がしばらく家に滞在する間は、長女の部屋はいじれない。先ず、長女の部屋から出すものを出した。
 続いて、階下から大量に2階へ物を移動させた。これで階下でごそごそやることもしばらくなくなる予定。
 コピー機を載せていた台を運び上げるとき、階段の途中でころげ落ちそうになった。かろうじて踏みとどまったとき、幸いワイフがリビングにいたので、呼んで助けてもらった。命拾いした。今日最大の危機だった。

11月4日(水)「非常勤講義の後も見舞い・・・の風さん」
 大ピンチの時ほど効率良く仕事ができる。待ったなし、の状態だからだろう。
 今日は非常勤講義がある。キャメロンで本山へ出かけた。駐車場の申請はしてある。
 銀行のATMで現金をおろし、郵便局で3件の送金をし、投函もした。100円ショップで文房具を買って、やっとキャンパスに入り、入場処置をした後、配布資料のコピーをした。すかさず、コーヒーを飲みながら、親しい事務員と長女の手術の話をした。彼女の友人も長女と同じ手術をしたとかで、説明する必要もないくらい、詳しい詳しい。
 準備は万全だったので、1時間半の講義はスムーズに終わった。
 そのままキャメロンで長女が入院している病院へ向かった。ナビの示す距離では、わずか3キロちょっとしか離れていない。
 3時過ぎに長女の病室に入り、4時前にワイフが電車でやって来た。
 結局6時半まで、飲んだり食べたりしながら過ごし、病院を後にした。長女の問題は、まだ傷口が痛むこと。
 その後、7時に次女が長女の見舞いに訪れた。
 今夜から慶應大学での講演の準備に集中することになった。参考資料は送ってあるので、講演スライドの作成である。
 どうもスライド枚数を減らすのは難しそうなので、会社で学んだ、各スライドの下に次のスライドへつながるコメントをつける方法をとることにした。そうすれば、タイムロスがかなり減らせるはずだ。さらに、参考資料とだぶるスライドは、簡潔に説明することにしよう。
 頑張っても今夜中に完成はしないので、適当なところで作業を中断した。

11月5日(木)「上京前日・・・の風さん」
 重要な仕事に集中するためには、雑務もある程度片付けておかないといけないことが分かっている。
 今朝は、その雑務から取り掛かった。朝食後、リンガフォンのテープを聴いたのである。ユニット40を聴いたので、これで3分の2が終わったことになる。だんだんペースが落ちてきたのは、それだけ難しくなってきているからだ。
 12月中旬にOR学会で講演させていただくので、そのための講演タイトルなどをお世話になる先生へ送った。
 午後2時過ぎにワイフとまた病院へ向かった。途中、和菓子屋に寄って、明日持って行く手土産を購入した。
 長女の容体は相変わらずで、傷口が痛むのがつらそうだ。しかし、これが全く痛くなかったとしたら、どんな無理をするか分からない。老化現象も、高齢者に無理をさせないための信号だから、傷の痛みも同じことだろう。
 病院の晩御飯ころに帰ったが、明日、予定通り退院できるか、少し不安である。
 帰りにスーパーに寄って買い物もしたが、今週は月曜から木曜までキャメロンで病院を往復したので、それだけで約400キロ走行してしまった。
 明日から1泊で上京するので、その準備と、講演スライドや持参する本などの用意で、かなり集中して頑張ったが、何とか間に合った。

11月6日(金)「高密度な上京スケジュール・・・の風さん」
 長女は朝の検温で38度以上の熱があり、主治医の診察を受けるまで、退院が微妙な状況になった。
 結果がまだ分からないまま、私は、最寄りの駅から上京の旅に出発した。今日の長女の対応はすべてワイフの仕事である。
 名古屋駅で東京駅百周年記念Suicaにチャージしてから、のぞみ号に乗車した。
 先ず、MacbookAirに今夜の講演スライドをコピーし、フォントなどの調整をした(Windowsの執筆マシンで作ったスライドは、MacintoshのPCではフォントなどの調整が必要である)。
 それが終わってひと安心したが、休んでいる余裕はない。午後、訪問するセイコーミュージアムのため、和時計の勉強をした。マルチで戦っている私は、ギヤを入れ替えるたびに、こういった知識の再確認作業が必要である。マルチということは、OSが違うようなものだ(ちょっと意味が違うか)。
 あっという間に品川駅に到着してしまった。猛烈な集中力。
 その間に、長女の退院が許可され、ワイフの運転で自宅へ戻った。先ずは、めでたしめでたし。
 東向島駅前のドトールでサンドイッチを食べてから、岩波書店の編集者と合流し、セイコーミュージアムへ案内した。歩きながらフランクミューラーの機械式腕時計の人気の話をしたが、ほとんどご存知でなかった。
 手土産を渡してから、丁寧な説明を受けながら、見学が始まった。私にとっては初めてではないが、来るたびに発見がある。編集者は、本当に初めてで、かなり楽しんでおられた。
 見学は途中だったが、私は次の目的地へ行かねばならず、3時過ぎに、先に失礼した(編集者は4時ころまで見学されたそうだ)。
 こちらも何度も来ている場所だが、日吉駅で降りた。
 親しくさせていただいている中野先生にお会いして(昨日購入した手土産をここでも渡し)、今月訪問するシンガポールやインドネシア事情、世界経済と日本経済の関係など、様々なことを教えていただいた。
 7時からの特別講義は、数年前にコンカレント・エンジニアリングの講演を英語でやった場所と同じだった。聴講者は、社会人も含まれている大学院生である。スライド枚数を減らし、つなぎに工夫を凝らしたので、それなりの効果はあったが、完璧ではなかった。最後のパート3は、もっと減らしても(極端なことを言えば1枚でも)よかった。講演後の質問(Good Questions)もいくつかあり、さらに持参した著書が2冊も売れ、上々の出来だった。
 先生と1階のパブでビールを飲んだが、疲労が蓄積していた私はかなり酩酊した。
 横浜の定宿に着いたのは午後11時で、部屋に入るなり、バタンキュー。
 しかし、午前2時に目覚め、シャワーを浴びた後、メールチェックし、いくつか返信も送ってから、再びベッドに倒れ込んだ。

11月7日(土)「久々にのんびりした1日・・・の風さん」
 横浜の定宿では朝食付きで泊まっている。今朝はご飯にしてしっかり食べた。
 上京したときの自宅への土産は、最近はたいていパンだ。なるべくドイツ風のパンを探して買って帰る。横浜駅で探して狙い通りのものを発見した。
 もう帰るだけのスケジュールなので、すべて余裕がある。のんびり行動していたら、乗るべき電車を間違えた。戻っていると、予定したのぞみに乗車できないので、結局、2回iPhoneで予約を変更し、最終的に予定より23分遅いのぞみで帰ることになった。
 それが運の悪いことに、名古屋からの乗り継ぎが悪く、自宅着は30分以上予定よりも遅くなってしまった。
 退院した長女は相変わらず傷口が痛いと言っていたが、治るためのプロセスなので、心配はないようだった。
 横浜で買ったパンが好評で、調べてみたら、軽井沢に本店がある老舗のパン屋だった。
 今日は仕事をするよりも、少しでも雑務を片付けておこうと考えたので、いつも午前中にするようなことをやって、閉店を迎えた。
 長女は明日ワイフの両親や妹が見舞いに来るので、マンションから持ってきたホームベーカリーでパンを焼き始めた。

11月8日(日)「長女の見舞い客・・・の風さん」
 日曜も祝日もない日々は相変わらずだ。それでも、起床が遅いと、休日のような感覚はある。
 ただし、今日は、雨模様で、気温が低く、気分はイマイチ晴れない。
 遅い朝食後、2階の片付けをやり、書斎で論文を読んでいたら、ワイフの両親と妹がやってきた。長女の様子を見に来てくれたのだ。今回の入院では、私たち以外の見舞いをすべて断っていたので、心配している人はたくさんいたと思う。その筆頭が、ワイフの家族だ。
 万全の態勢で長女は待ち構えていたので、立って歩いている姿を見せただけで、安心させることができたようだ。
 ワイフの妹はパン屋でのアルバイト経験があり、今日もお勧めのパンを持ってきてくれた。昨日、私が横浜で買ったパンの話をしたら、本店が軽井沢にある有名なパン屋だと知っていた。恐るべし。つい最近、東京駅の地下街でも支店を探して購入したばかりだという。お見舞いのお礼に、長女が焼いたレーズンパンがお土産になったので、今日の懇談は、病気の話から一気にパンの話題に集中してしまった。
 夕方、読みかけの本を読んだ。ボリュームがあって、まだ読み終わらない。
 次女もアルバイトから早めに帰宅したので、晩御飯は賑やかだった。
 11月になったので、kindleオーナーライブラリーから無料の本をダウンロードしようとして、失望した。欲しい本はライブラリーにはほとんどないのだ。電子書籍がはやらない原因の一つだろう。

11月9日(月)「老骨ロッキー・・・の風さん」
 今日も天気はよくない。2階から柿の木を眺めると、まだたくさん実が成っている。ときどき野鳥が飛んできてついばんでいるが、たいしたことはない。私は透明になるほど熟した柿が好きなので、たまに収穫した庭の柿は室内に放置してある。食べごろになるのを待っているのだ。かなり柔らかくなった柿は、福島の名産あんぽ柿とよく似た味がする。実際、うちの柿の木は、亡父が福島から苗を持ってきて植えたものだ。形状を見ても、あんぽ柿に酷似している。
 今日も雑務に励んだ。よくこれだけやることがあるものだと感心するやら呆れるやらだが、性分なのだろう。どんな雑務があったか、少しだけ書き留めておこう。リビングのピアノの修理と調律のため、楽器店に電話した。12月の学会の参加登録をネットからおこなった。まもなく出版されるビジネス本の贈呈先リストを作った。洋上セミナー「創造の船」に持参する名刺を印刷するため、原稿をバージョンアップしてみた。…………。
 昼食に、長女がオリジナルの納豆うどんを作ってくれた。冷うどんで、食欲の低下する夏にはもってこいの味付けになっていた。肌寒い秋にはちょっと似合わないが、納豆は大好物なので、面白い料理だと思った。
 夕方も雑務が続いてすっかり疲れてしまった。
 劇場で見られなかった映画「ロッキー・ザ・ファイナル」をネットで鑑賞した。中学時代からボクシングは大好きで、タイトルマッチを見ては勇気付けられていたが、映画でも同じだった。まして、他人とは思えない老骨ロッキーのチャレンジである。胸の奥で燃え続けている火がある限り、チャレンジは続けよう。

11月10日(火)「意外と手こずる宛名シール印刷・・・の風さん」
 たっぷり寝て起きたら青空だった。しかし、風が強い。次女を駅まで送った帰りに、郵便物を4通投函した。
 今日は、昨日リストアップしたビジネス本の贈呈先の宛名シールを印刷しようと思った。ところが、これまでの文芸作品や年賀状の送り先と異なるため、準備に手こずった。常日頃こまめに更新している住所録だが、何人も追加する必要があった。
 最後までやっていると日が暮れてしまうので、午後3時前に筋トレに出かけた。また間隔が2週間空いてしまった。体はガチガチにかたまっている。少しペースを落として、メニューをこなしていった。やはり週に2回は行かないと。
 帰宅して、いつものようにホットタイムにしたが、長女もいるのでにぎやかだ。
 その後も宛名シール印刷の準備と、挨拶文の作成に随分と時間をとられた。これなら映画を鑑賞しながらできないかと、気になる「八甲田山」(高倉健主演)をディスプレイの一台で同時放映していたが、ほとんど観ることがなかった。「八甲田山」は、やくざ映画から卒業するために、高倉健が財産を処分してまで取り組んだ(その間収入がなかったから)作品である。また、あとでじっくり観よう。
 結局、午前零時過ぎまで、ほとんど宛名シール印刷のための仕事に忙殺されてしまった。

11月11日(水)「宛名シール関係が完了・・・の風さん」
 来週のセミナーがなくなったことは、実力不足の私には、結果としてラッキーだったと実感している今日この頃である。
 そして、さらに今週から3週連続して、本山キャンパスの講義は田村先生にやっていただくことになっている。これも同様に、実力不足の私には、……である。
 午前中もまだ残務があって、午後になってやっと宛名シール関連の準備が完了した。封筒に入れてみると、重量は246グラムで「定形外250グラムまで250円」に入る、コストパフォーマンスの高い郵便物になった。急ぐ必要はないので、投函は明日の午前にする。
 並行して、雑務もこなした。朝食前にリンガフォンのテープも久しぶりに聴いた。
 こうやって、やっと精神的な落ち着きを取り戻したので、きわめて久しぶりに小説執筆の態勢に入った。
 クリエイティブな仕事は、最初のとっかかりが大事だ。特に私の場合、あれこれ頭の中に雑念が多過ぎると、小説どころではないのだ。
 しかし、取り掛かっただけで、まだまだ先は見えない。

11月12日(木)「モーニングの後の幸運・・・の風さん」
 退院から約1週間が経過したので、長女とワイフを連れて海岸近くにある某食堂のモーニングに、昨日から出かけることにしていた。
 海は穏やかだったが、あいにくの曇り空である。
 当地は観光地だが、ウィークデーの人出は少ない。食堂も空いていた。
 帰る頃には青空も出てきて、何とか恰好がついた。
 結局、今日は、午後からの仕事になった。相変わらず、やることが多いと、気持ちが集中しない。
 思い切って、名刺の準備をした。洋上セミナーでは名刺交換する場面が多いので、100枚を超える名刺を持参するように事務局から言われている。
 それで、今日は、今月出版するビジネス本も加えた最新名刺を100枚印刷した。
 昨日から電子メールが届かなかったというエラーメッセージが大量に届き出した。例によって私のアドレスが勝手に使用されたらしい。ドイツからの返信がほとんどで、これも以前と同じだ。今さらどうしようもない。ひたすら削除するだけ。
 毎日色々なメールが届くが、タイトルだけで開かないメールがほとんどだ。しかし、今日は楽天からのメールのタイトルにポイントのお知らせというのがあったので、ふと開いてみた。意外と大きな数字のポイントがたまっているらしい。興味が湧いたので、使えるかどうか試すことにした。なんと、本が1冊タダで手に入った。こういった幸運がたまにあると実に嬉しい。

11月13日(金)「生産技術マネジメント研究会・・・の風さん」
 普通の人の時刻に起きたため、眠い眠い(笑)。今日は13日の金曜日だが大安だ。何か面白いことがあるだろう。
 いつものパターン(キャメロン⇒電車)で生産技術マネジメント研究会に向かった。午前中はものづくり三方よし研究会の山田さんのご講演。グローバルビジネス環境を政治と経済の面から解説し、グローバル人材の必要要件を提示された。私の関心事とまさに重なる内容だったし、私以上の情報をお持ちで、非常に感銘を受けた。先日の米軍の駆逐艦の南沙諸島航行と横須賀へのロナルドレーガンの寄港の連携説は納得できた。
 早くも今日の面白さを堪能してしまったせいか、その後は睡眠不足による頭痛で悩まされた。しかし、チームミーティングにはしっかり貢献した。
 帰りにGSでキャメロンに給油したが、121円だった。沖縄では100円を切るGSも出てきているらしい。原発が止まって火力発電のために大量のLNGや原油を輸入しているが、原油安が続いていて、まさに不幸中の幸いである。開発中の石炭による新発電技術を早く確立してほしいものだ。
 たまたまワイフの帰宅電車時刻と合ったため、最寄りの駅で少し待ち、ワイフを乗せて帰宅した。
 晩御飯はおでん。おでんがありがたい季節になっている。私は残りのカレー。ただし、長女が炊いたご飯が失敗で、カレーライスはカレー雑炊になってしまったが。
 昼間は穏やかな天気だったが、雨が降り出した。風も吹いている。
 少しだけ雑用をして就寝した。1週間後にはシンガポールへ飛ぶことになる。

11月14日(土)「書評を執筆・・・の風さん」
 昨夜の雨が今日も続いている。天気予報の正確さには今でも驚かされる。今日は終日雨で、明日も半日は雨になるだろう。
 昨日は雑務ができなかったので、今日は通常の雑務からスタートした。
 昼食後、読みかけの電子書籍に取り組んだ。ネットに書評を書く予定なので、頑張らねばならない。
 ところが、猛烈に眠くなってきた。椅子に座ったまま寝たいのに、ロッキングチェアが揺れてくれない。取説を探して、やっとロッキングのロックの外し方が分かった(笑)。座ったままでは操作できないしくみだった。
 結局、夕方まで昼寝してしまった。昨日の疲れがたまっていたようだ。
 それからねじり鉢巻きで読書に取り組んだ。活字を拡大して読んでいるので、読みやすい。
 うどんの夕食後、書評に取り掛かった。自論と重なっている思想を、自分の言葉で表現した。そして、前回は、名前を公開するやり方が分からなかったので、今回は調整して名前を明記した。文責を明らかにしたわけだ。
 こうして毎日一つずつ懸案事項を処理しているが、なかなか本来の作家業に入れないでいる。

11月15日(日)「ピアノの修理と調律・・・の風さん」
 やっと天気が回復した。午前中にリビングの整理をした。今日はピアノの修理と調律に来てもらうからだ。
 うちのピアノの自動演奏ができるピアノプレイヤーである。それが、たまたま今年故障した。しばらく使っていないうちに自動演奏できなくなってしまったのだ。我が家で静養中の長女が気分によってピアノを弾く可能性もあったので、修理と調律を依頼することにした。先月、そのピアノを製造した掛川工場を2回目の見学をしたのも何かの縁だろう。
 故障の原因はフロッピードライブにあり、交換することで直った。もっとも、このタイプは既に製造中止になっているので、部品の在庫があったお蔭で修理できたことになる。調律は、もう10年間も実施していなかったので、どうなることかと気をもんだが、特に問題がなかったので、通常の調律で済みました、とのことだった。
 仕事が終わった後、調律師と雑談したが、中国で作られている脆弱なコピーピアノの話は面白かった。また、日本製のピアノは、日本で使われていたという中古品もその信用度で非常に人気があるとのことだった。インドネシアは暑い国だが、そういった気候に耐えられる構造のピアノを作っているそうだ。来週、私はインドネシアに行くので、実際にそこの気候を体験してくることになる。
 夕方から、日本数学協会の機関誌『数学文化』に寄稿する掌編小説の構想を練ったが、とうとうアイデアが閃いた。創造的な仕事は、このアイデアが閃くまでが大変なのである。
 夜は、来月最初の非常勤講義の準備を少しした。「創造の船」から帰ってきて慌てないようにするためだ。

11月16日(月)「悪寒戦慄・・・の風さん」
 朝食後、気になっている用事で外出した。穏やかな陽気で、キャメロンで海岸線をゆっくり走るのは気持ちいい。
 ドラッグストア、ATM、JAと経由して帰宅した。小一時間のドライブだった。
 長女が作ってくれた納豆ご飯の昼食でパワーをつけてから仕事に取り掛かった。
 昨日の続きで、12月第一週の講義の準備をほぼ完了させた。これが帰国後の最初の懸案事項になるので、それを今のうちに終えておくのは作戦的にもグッドのはずだ。
 続いて、洋上セミナーでおこなう基調講演の準備の2回目だ。簡単には完了できない。もっとよく考える必要がある。
 今日、不思議なことに家の中に蠅が2匹飛んでいた。陽気のせいではないだろう。殺虫剤の噴霧の勢いが弱く、何度も吹きかけなければならなかった。とにかく、やっとのことで退治することができた。
 蠅をやっつけたせいでもないだろうが、自分自身の体力がなくなってきた。
『数学文化』向けの掌編小説の準備をしていると急激に眠くなってきた。うとうとしているうちに、悪寒戦慄が襲ってきた。冬の明け方、布団の中で何度か感じる嫌な症状だが、まさか書斎で……。遠赤外線ヒーターをつけて体を温めたが、どうも不調である。
 諦めてそのままベッドに直行した。

11月17日(火)「1週間ぶりの筋トレ・・・の風さん」
 いつもより当然遅く起床した。昨夜の悪夢を断ち切らねばならない。朝刊の天気予報を見ると、今日は夕方から雨が降り出すとコメントしてあった。
 1時頃、筋トレに行こうとした。……と、もう小雨が降り出している。中止するわけにはいかないので、傘を持って出発した。
 1週間ぶりのトレーニングルームは空いていた。天気が悪いから当然だろう。先週の金曜日は名古屋へ出かけたし、土曜日は終日雨、日曜日はピアノの修理があったし体育館はイベント(産業祭り)で大混雑だったし、昨日は体育館は休みだった。昨夜の悪寒戦慄は、体の不調の兆しかもしれず、とりあえず筋トレは重要だった。
 例によって体がガチガチだったが、通常のメニューをこなした。約1時間半で、気分的にスッキリした。
 帰宅し、長女の作る焼きそばで遅い昼食にしてから、仕事に取り掛かった。
 洋上セミナーでおこなう2回の講演のうち、経営者向けの方の準備をした。けっこう手間取る。
 それが完成しないまま夕食になった。
 夜は、『数学文化』向けの掌編小説の準備の続きである。下調べがけっこう大変だが、調べながら少しずつストーリーもできていくのだ。

11月18日(水)「長時間の昼寝・・・の風さん」
 午前中に気になっていたメール(新刊の件)をいくつか出した。
 これで気分がだいぶ楽になったのだが、昼食後、疲労が襲ってきた。寝不足もあって頭痛もともなっている。
 こういうときは少し寝てから仕事に取り組んだ方が効率が良いので、迷わずベッドにもぐり込んだ。
 ……、目覚めたら、外は真っ暗だった(笑)。
 非常に焦ったけれども、どうしようもない。
 と言うより、今日は母の祥月命日である。きっと亡き母が、体力のない私を今日は休ませてくれたのだ。
 そう思って、本来、今日の午後にやる予定だった仕事に手を付けた。
 結局今日は、洋上セミナーの基調講演のスライドがやっとできただけだった。
 残りは明日だ。

11月19日(木)「感情の起伏・・・の風さん」
 長女が退院後初めての診察を受けるため出かけた。名古屋の自宅の用事もあるため、しばらく帰ってこない。静かになったが、寂しい感じもする。
 朝から気になっている雑務に取り組んだ。ファックスを送り、電話をかけた。久しぶりにリンガフォンのテープも聴いた。これで70%が完了。
 ビジネス本の見本などが届いた。開梱して、本を確認すると、ゲラの時よりも格段に良い仕上がりになっていた。34年間の会社人生の3分の1くらいが反映されていることを思うと、これは感慨無量である。会社の卒業制作のようなものでもある。
 この本を使ったセミナーもやりたいが、これからもビジネス本を出版できるかが課題であり目標である。会社の卒業制作はこれだけではないはずだ。
 午後から洋上セミナーの中のもう一つの講演、経営懇談会の準備をした。会場がプロジェクターが使えるかどうか微妙なため、両方の準備が必要だった。ディスカッションができる講演スライドを作成し、プロジェクターが使えない場合の補助資料(レジュメは事務局へお願いしてある)を考えて印刷した。4イン1の両面で2枚構成である。しかし、これだけ用意しても、問題は内容だ。基調講演(実際は特別講演という位置付け)もそうだが、私の講演が難しくなってしまうと興ざめである。
 ここまでで夜になってしまった。
 夕食後、旅行荷物の準備を開始した。販売用の本を用意しているうちに落ち込んできて、予定よりだいぶ少なくした。
 もうこうなると、衣類の準備は気合が入らない。
 掌編小説の準備が今日は全くできなかった。向こうでやるのか?

11月20日(金)「出発前日・・・の風さん」
 早起きしようと思ったが、明日の集合時刻と同じ時刻に起床。まずい。
 朝食後、旅行の準備の続きに取り組んだが、能率が上がらないまま、どんどん落ち込んできた。
 もともと出発前日の今日は、どうしても買う必要があるものを買う日にしようと決めていた。しかし、買い物に行かずにやりたい仕事がたっぷりあった。しかし、買い物にも行かねばならなかった。
 1時過ぎに我慢できずにキャメロンで出発した。筋トレに行きたくなるほど、体調はいい。つまり火曜日の筋トレの疲れはとれているということだ。何もなければ、今日あたり筋トレで体をいじめれば、少しは体力がアップするはずだ。
 帰国してからも超多忙になることは容易に想像できる。そのとき、買い物に行っている余裕はないだろうから、今日は旅行以外の必要品も買っておくべきだと思った。
 家電量販店、大型スーパー、ドラッグストアを回って帰宅した。
 ダイニングテーブルの上に梅干しの入ったおにぎりが2個あったので食べた。昼食はまだだったので、うまかった〜。
 それからワイフを誘ってセントレアに行った。明日の出発は早いので、今日のうちにやっておこうと、未加入だった旅行保険加入とシンガポールドルを1万円ほど両替しておくためだった。
 駐車場はけっこう混んでいたが、国際線出発ロビーは空いていた。
 用事を終えて、オープンデッキの特殊イルミネーションを見学した。本の形をしたスクリーンにプロジェクターでおとぎの世界のような映像を見せてくれるものだったが、技術の進化に慣れている現代人には驚きは少なかったと思う。もっとダイナミックな展開か、ホログラムを駆使した立体映像、サラウンド音場なども利用することと、屋外つまり無限空間を大胆に利用(レーザー光を使うとか……空港だから困難か)すべきと思った。
 帰りにシュークリームを食べたら、不思議と元気が出てきた。
 帰宅して、旅行の準備に拍車がかかった。さんざん迷っていたが、今回は、2倍くらいの衣類を持参することにした。冬の日本から夏の東南アジアへ行くのだから、これくらいのムダは仕方ないのだろう。
 午後11時ころ、やっと荷物がまとまった。
 ひとっ風呂浴びたが、まだまだ準備は残っている。

11月21日(土)「初めてのシンガポール・・・の風さん」
 昨夜、旅行の準備はとりあえずできたが、掌編小説の準備が目標レベルまでできなかったので、当初の計画と違うけれども、旅行中にやるための最低限の準備をしなければならなかった。
 それで、就寝は午前2時で、今朝は6時半に起床した。
 1年中でもっとも昼間が短い季節だが、もう外は明るかった。
 セントレアの乗降場所まで送ってもらって、出発ロビーに行くと、すごい大混雑。昨日とまるで違う。
 集合場所で搭乗までの説明を聞き、シンガポール航空のレセプションでスーツケースを預け、さっさと手荷物検査を受け、出国手続きをして免税ショップのある場所に出た。
 1年前、ここでワイフや長女と免税店を眺めたのが、つい昨日のような、あるいはずっと昔のような、不思議な感覚にとらわれた。
 ケータイで空港の写真を撮り、充電ボックスで、フェースブックに書き込んだ。洋上セミナーで講演するためシンガポールへ行く、と。静かな環境で作業をしていると、中国語のアナウンスの多さが気になった。
 余裕しゃくしゃくで搭乗することができた。席はエコノミーだが、通路側でゆとりがあった。寝不足でイマイチ元気が出なかったので、映画を見ることにした。今年劇場で見た、トム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」だ。字幕が出ず、英語のままでよく分からなかったが、レベッカ・ファーガソンにまた魅了された。その後、少し寝たが、冷房が効き過ぎていて寒かった。脱いだ上着をあわてて着こんだ。
 飛行は安定していて、着陸時の耳の痛みも高度4千メートルを切ったところで、うまい具合に解消し、スムーズに着陸した。時差は1時間の遅れ。 iPhoneはすぐに現地時間になったが、私のGショックは世界6バンド対応でないため、日本時間のまま。そのままにしておくことにした。
 初めてのシンガポールである。近代的な都市ではあるが、東南アジアという感じがする。そして、いくらか花が咲いていて、ちょっぴり南国の感じもした。ガイドによると物価が高く、乗用車など日本の3倍とか4倍、マンションは数億円以上とのことだった。それだけ稼いでいる国なのだ。
 バスで中華料理のレストランに移動して(左側通行なんだね)、晩ご飯と交流会になった。講師席は講師席でけっこう盛り上がった。やはり作家は珍しいらしい。
 ホテルはかなり良いホテルだった。Wi-Fi接続が簡単で、さっそくラインで家に報告した。
 明日は朝が早いのでさっさと寝ることにする。

11月22日(日)「洋上セミナーがスタート・・・の風さん」
 広々としたホテルの部屋で目覚め、バイキングの朝食を摂ると、シンガポールに来ている気があまりしない。アジア系(マレー人、中国人、インド人)の人が多いので、欧米に旅行しているときより違和感をあまり感じないせいかもししれない。
 チェックアウトしてゆっくりホテル出発となった。
 バスで植物園を訪れると、やっと南国に来ている感じがした。狭い国土(と言っても一つの都市がそのまま国になっているだけ)の中に広い道路と高層ビルと森が密集している。確かに日本の風景ではない。建設工事で働いている人たちはほとんど外国人だという。
 色々な国のメーカーのクルマが走っている。日本の3から4倍の値段とのことだが、日本の方が高級車は多いような気がする。とにかく物価は異常に高いらしい。イギリスの植民地だった国なので、クルマは左側を走っている。
 続いて、観光スポットであるマーラーライオンのある岸壁に行った。ここから眺める船の乗ったような高層ビル(ホテル)の方が印象的だ。マーラーライオンは修理中らしく水を吐き出していない。
 昼近く、やっと船に乗ることになったが、出国と同等の手続きがあって、べらぼうに時間がかかった。
 講師なのでツインルームを一人で使わせてもらう。荷物を置いて、船内レストランで昼食となった。インド料理と中華がメインのレストランで、ラーメンらしきものも選択したが、初めての味がした。何とも形容が難しい(不味くはなかった)。
 法律にしたがって、避難訓練があった。日本語の説明がないので、よく分からない。外は蒸し暑い。
 夕方から結団式と最初の基調講演があった。講演はコンサルタント会社の若い社長で、欧米のビジネススタイルだった。私がやろうとしてもできないものだ。世の中には優れた人がいるとあらためて感心する。
 講師陣だけで昼食とは別のレストランで洋食コースの晩ご飯を食べた。基調講演をした人は参加者グループに誘われたため、4人だったが話は弾んだ。
 その後、皆でナイトショーを見に行った。すばらしいショーだった。サーカスのアクロバットのようなダンスが中心だが、照明を落として体に巻いた電飾の点滅を駆使したパフォーマンスは見ていて全く飽きない面白さだった。同じ場所で明日の午前に講演をするかと思うと、憂鬱だった。

11月23日(月)「いきなり時差でトラブル・・・の風さん」
 腕時計は日本時間のままにしておき、現地時間に自動的になっているiPhoneを信用して目覚ましをセットして寝たのだが、1時間早く目が覚めた。
 30分ほどでまた目が覚めたので起きることにした。今日の講演が気になってしょうがなかった。
 ところが、起きて、腕時計の時刻と比較すると時差の1時間ではなく2時間の時差になっていたのでパニックになった。何が起きたのだ?
 急いで身繕いをして部屋を出、レセプションデスクで時刻を尋ねると8時だという。朝食を摂るため7畤半に集合する約束をしていたのに、もう30分も過ぎていた。
 慌てて昨夜のレストランへ向かったが、約束した3人の姿は見えなかった。既に朝食を終えたのか、他のレストランへ行ったのだろう。
 9時半から講演をするので、8時半に朝食を終え、急いで準備して会場へ向かった。
 今回のバタバタの原因は後で判明した。シンガポールと日本の時差は1時間だが、マレーシアと日本の時差は2時間だという。マラッカ海峡を進んでいるうちに、マレーシア時間にiPhoneが同期したのが原因だった。
 船内行動を船内時刻が基準で、それはシンガポール時間だった。
 それはともかく、昨夜のナイトショーを見た会場で、講演の準備を念入りにやり、開始時刻を待った。
 私にしては非常に不安だったが、全力で対策を練っていた。昨日の基調講演やナイトショーを引き合いに出す手法だ。
 その対策通りに講演を開始させた。持参の文庫をプレゼントするサプライズも入れて、何とか最後まで演じきることができたが、どれだけインパクトがあったかは、このセミナーが進むうちにだんだん明らかになるだろう。それでも、講師陣や事務局からはねぎらいの言葉あって、少し安心はした。
 講師陣の一人と昼食を摂りに中華レストランへ向かったが混んでいて、また昨夜と同じ洋食レストランに入ることになった。
 ビールを注文して飲んだ。タイガービールは美味かった。ひと仕事終えた開放感のせいだろう。
 急いで昼食を終えて、別の講師の講演を聴きに行った。こちらは念入りな準備がされた講演だった。
 夕方から下船して、ペナン島を講師陣4人で散策した。蒸し暑いので、Tシャツとジーンズである。
 色々なメーカーのクルマがたくさん走っている点はシンガポールと同じだが、今でもイギリスの植民地のような風景が残っていて、これが東南アジアかと思った。手は出さなかったが、屋台の食べ物は何となくあやしい。
 大汗をかき、2時間ほどで船に戻り、昨夜と同じレストランで(私にとっては4回連続同じレストランで)講師陣と夕食を摂り、またナイトショーを見に行った。
 今夜のナイトショーは、船内クルーによるゲームで、一緒にYMCAを踊るはめになった。
 そこで、今夜の遊びは終わりにしたのだが、ロビーでWi-Fi接続に挑戦しているときに、若い受講生が話しかけて来て、小一時間も話し込んだ。頼もしい若者で、日本の将来は明るいと思った。年寄りらしく経験談をたくさん語ったが、どうか彼の成長の邪魔になりませんように、と祈るしかない。

11月24日(火)「今回の仕事が終了・・・の風さん」
 とうとう昨夜の就寝は午前2時を回ってしまった。最後に今日の講演の全体の流れを整えたのだが、また時間をオーバーしてしまうかもしれない。しかし、全力を尽くした結果に後悔は少ないはず、と思って頑張ってみたのだ。
 iPhoneの目覚ましタイマーで目が覚めた。すぐに日本時間の腕時計をチェックして、時差が1時間あるのを確かめた。
 寝不足のはずだが、気合いが入っているせいか、睡眠不足をあまり感じない。
 ロビーにある事務局で講師仲間と落ち合って、中華レストランに朝食を摂りに行った。初めての場所だ。空いていた。
 経営者・幹部コースを対象とするセミナー(経営懇談会という名称になっている)は、講師4人が順番におこなう。昨日のO講師を先頭に、今日午前の私、午後のS講師、明日のI講師と続くと、内容的に筋が通っているだけでなく「起承転結」のメリハリになっていることを確認して大いに盛り上がった。
 会場は非常に小さかったが、昨日に続いて、念入りな準備をしてセミナーを始めた。一方的な講義ではなく、途中で質問をしたり、受講生が3人ずつでディスカッションしてもらう形である。狙いはよかったかもしれないが、例によって丁寧にやり過ぎて、最後は駆け足になり、それでも10分もオーバーしてしまった。
 昼食は、船内で最初に入ったレストランで摂った。海側がガラス張りになっている抜群のロケーションだった。
 午後のS講師のセミナーは非常に迫力があり、勉強になった。やはりコンサルタントのプロ(しかも一流)はすごい。自分の力不足を痛感した。
 船がポートクランという港に着いたので、また下船して散策に出かけた。近所に町がないため、雑貨品などを売っている店での買い物を楽しんだ。ここはマレーシアなので、通貨はリンギッドになる。欲しい品物(自分用のお土産のお面)が29.9リンギッドなので、両替所で千円札を出して30リンギッドを手に入れた。不思議なことにお釣りが1リンギッドだった。アバウトな世界である。この1リンギッド紙幣(約30円)でベビスターラーメンみたいな0.5リンギッドのお菓子を2個買った。
 このあたりは、いつも一緒に行動している講師陣(私含めて4人)からのアドバイスの賜物である。
 ご機嫌で船内に戻った。
 晩ご飯は、クルーズ会社主催の夕食会だった。以前は船長主催カクテルパーティがあったらしいが、今夜はそれではない。
 講師らは同じテーブルについた。団長から飲み放題だと教えられ、ビールの後は白ワインだけ飲んだ。
 メインディッシュが出るころから、参加者が次々に名刺交換にやってきて、名刺入れの名刺がなくなってしまった。
 かなり酔っぱらった状態で部屋に戻り、歯を磨いて、しばらく横になっていることにした‥‥ら、そのまま寝てしまった。

11月25日(水)「スーツケースがへこむと気分もへこむ・・・の風さん」
 船はシンガポールへ向けて航行している。
 あまり揺れないし、適度に酔い止め薬を飲んでいるので、船酔いの兆候すらない。こうなると、航行中の船に乗っていることをすぐに忘れてしまう。思い出すのは衛星通信を利用したWi-Fiの接続がきわめて良くないのでイライラするときくらいだ。30ドルも支払っているのに!
 昨夜はビールとワインで酩酊し、そのままベッドに倒れ込み、ときおり目覚めては、また眠ってしまうことを繰り返した。
 いつものように講師4人で(今朝は7時半集合)朝食を摂りに船尾の中華レストランに行った。このレストランの席は階段教室のように配置されていて、船の後方が大きな窓を通して眺めることができる。しかし、また大いに語り合ってしまった。話し合うのが好きな連中だ(笑)。
 今日は午後下船するので、未明に起き出した私は荷造りをほとんど終えていた。
 午前中、感動をテーマにしたコンサルタントのセミナーを聴講した。気付くことが多く、メモがいっぱいになった。やはりプロはすごいな。小さなことだが、タイムキープのためにキッチンタイマーを利用していた。これは真似しなければ。
 今回の研修旅行で親しくなった講師4人で、インド料理のランチを摂りに行った。乗船して最初のランチのレストランだ。本格的なので、ここの味は非常に良い。しかし私は、胃腸のことを考えておとなしい選択をした。
 午後は、これからのスケジュールの詳細な説明を聞き、入念な準備を経て下船となった。船内の買い物等はエクスプレスチェックアウトの登録をしてあったので、何もすることはなかった。
 下船後、バスで空港まで行った。インドへ行く人たちとはここで別れる。私たちはインドネシアだ。
 途中から猛烈な雨が降り出した。スコールのようだ。南国に来たという実感がある。
 大きな空港で、何となくホッとする。つまり、最も慣れているヨーロッパの空港と同様の風景だからだ。
 出発まで比較的時間があったので、お土産を買っておくことにした。広い免税店街を往復して、家族への手頃なお土産を買った。一点狙いは難しいので、いくつも買っておいて、あとは選んでもらうしかない。インドネシアでも何か買えるといいのだが。
 夕食は機内食で、なかなかせわしかった。私はその間にも英字新聞に目を通し、さらに映画を途中まで見た。こんなことができたのは、来たときと同じシンガポール航空だったからだ。
 夜の空港は雰囲気が好きだ。その雰囲気の中で到着したのだが、一気に気分がへこむ事故が起きた。
 私のスーツケースの角部分が強烈につぶされていたのだ。故意にやったとしか思えないくらいのひどさだった。
 今回の研修旅行は団体行動なので、旅行会社から添乗員がしっかり派遣されている。さっそく添乗員に伝えると、困ったような反応があった。仕事が多いのだろう。
 私はセントレアで前日に旅行保険に入っていたので、その保険会社に電話して、どのような対応をすべきか聞き、添乗員へ伝えた。
 添乗員は、航空会社と交渉するとのことだった。
 バスでホテルへ向かった。夜のジャカルタの雑多な風景にとまどった。上方へ目を向ければ近代的なビルが見られ、下へ目を向ければ、人が大勢いて、屋台が並んでいる。道路はシンガポールよりも混雑していた。中心部に入っても、信号機はほとんどなかった。
 ホテルの部屋に荷物を入れて、インドネシアも一緒になった講師3人で一階のレストランに入り、ビールを飲みながらまた情報交換した。話は尽きない。
 スーツケースをへこまされて、気分もいくらかへこまされたが、これが一人旅であれば、さらにその対応が一人でできるので、楽しみに変わるのだが、旅行会社の添乗員に下駄を預けた格好になっていた。ちょっと面白くない。私の生き方は「災い転じて福となす……というより挑戦となす」なのだ。
 大きな部屋を独り占めしながら、メールチェックなどでまた就寝が深夜になった。相変わらず、持参した仕事はまったく手が付けられない。

11月26日(木)「工場見学で本名になってしまった・・・の風さん」
 今日は午前中にトヨタ自動車の工場見学がある。非常に楽しみである。鳴海風から原嶋茂に完全に頭が戻っている。
 準備してきた通り、デンソーのロゴが入ったポロシャツ(長袖、色は黒)を着、自前の安全靴も履いた。見学時に帽子の着用が義務付けられているため、ついでに愛用のジンズのメガネも常時かけることにした。安全メガネ代わりだ。
 7時の朝食時から会う人会う人にそれを自慢したため、変な人だと思われた恐れは高い……が、いっこうに気にしない。
 8時にホテルを出発した。
 トヨタの工場はジャカルタ市内に複数あり、バスは最初間違えて本社工場近くに駐車し、そのまま徒歩で門を入り(よく入れたものだ)、正面受付まで通った。受付嬢はいかにもイスラム教徒といった服装(ヒジャブをかぶって髪をかくしている)をしていたが、かえってそれが魅力的だった。敷地内に駐車してある車はほとんどトヨタの車だった。トヨタらしい。
 それからあらためてバスで出発、当初の目的地であるエンジン工場へ向かった。
 こちらもきれいな工場で、雰囲気は日本と変わらない。
 最初のグローバル環境の説明は良かった。インドネシアの特徴を明確にするためである。40年もの歴史を経て、ここまで到達したということだろう。
 生産性やTPSの普及度合いもなかなかのものだった。それはともかく、私の最大の関心事は、ローカル人材にある。5班に分かれての見学で、説明をしてくれた人は、1992年入社で、98年には1年間上郷工場での研修も経験した人だった。日本に好感を持ち且つ誠実な人柄を感じたので、休憩所の説明があった時に、イスラム教のお祈りの時間とのタイミングを質問したら、同行している日本人スタッフから横やりが入って「後でお答えします」となった。実は、他の質疑応答でも、彼の回答が不十分と見るやすぐに補足説明をしていて、何となく気に入らなかったのだが、ここで一気に不快感を覚えた。心の底からローカル人材を大切にしていないように見えたからだ。ライフスタイルに関する質問は、日本人スタッフに質問する気はない。
 海外工場を見学した経験はほとんどないので、どうしても日本の工場のレベルとの比較になってしまう。あえて書くなら、日本のトヨタ工場よりはかなり落ちる。TPSのレベルで言えば、日本の自動車以外の中堅企業レベルであろう(見学コースは外面なので、本当の現場はそれよりかなり落ちるのが普通だ)。一例を上げれば、見える化のレベルである。現場管理者の目で見た時、QCDSH等の実態が分かる仕掛けが少ないのである。
 昼食は大きな中華料理レストランだった。まずまず無難なメニューだったと思ったが、他のテーブルでは、食器の汚れが気になって、せっせとナプキンで拭いているうちに時間がたってしまったと後で聞いた。
 途中でiPhoneの呼び出し音が鳴り、画面を見ると某出版社からだった。ジャカルタにいると応えたら、相手はビックリしていた。詳しい話はできないので、メールしてもらうことにした。
 その後、大きなイスラム教の寺院を見学した。靴を脱いで内部に入ると、広い堂内では荘厳な祈りがDVDとスピーカーを通して響き渡っていた。シリアなどでは激しい宗派戦争になっているが、この国はどうなのだろうか。世界平和は宗教の包容力・寛大性にかかっていると思う。
 続いて、大きなショッピングモールに案内してもらい、1時間ほどの買い物の時間をもらった。私は貴重な機会だと思ったので、また家族へのお土産を買った。それほど高価ではないのだが、ルピーが下落しているため桁数がべらぼうに多く、あえて値札をとらず、そのままにしてもらった(笑)。
 晩御飯はインドネシア料理のレストランだった。非常に洒落た建物で、ライトアップされて美しかった。家族を連れて来たいところだ。
 料理は真剣にインドネシア料理らしく、様々な香辛料が使われていて、味も未体験ゾーンだった。つまり、初めての味であり、美味しいと感じるには時間がかかるだろう、そういった味だった。しかし、場所はジャカルタで、エキゾチックな建物、ローカルのウェイター、メイドがいることで、挑戦に値する料理だと思う。
 8時前にホテルに帰ることができた。
 持参してきた作家仕事を全くしてなかったので、もう今夜しかそれをやるチャンスがない、と思い、講師仲間に今夜の交流会はやめると言い、早々と部屋に引っ込んだ。
 最悪だったのは、昨夜スムーズにつながったWi-Fiが今夜はさっぱりつながらず、メールチェック等仕事に入る前の作業の効率が上がらないのである。
 新刊が届き始め、その反応メールも来ているので、早く処置したかった。昼間電話が来た出版社からのメールは朗報で、しっかり返信したかったが、とてもできる通信状況ではなかった。
 明日、ホテルをチェックアウトしたら、もうスーツケースを開けるのは帰国してからになるので、荷造りも覚悟を決めてやる必要があった。
 結局、作家仕事はまるでできないまま、寝ることになった。

11月27日(金)「セミナー最終日・・・の風さん」
 今日も7時朝食、8時出発だった。
 スーツケース損傷事件は、旅行代理店を通じて航空会社へ伝えてもらい、帰国後、日本の代理店との交渉になるとのことだった。自分で入った海外旅行保険の方は、免責ゼロだし、信頼の置ける会社なので、そこより対応が悪そうだったら、航空会社の提案は拒否することもあり得る、と今は思っている。
 バスでジャカルタ空港へ向かった。空港が近くなっても、貧民街が車窓に見える。シンガポールと違ってここはまだ発展途上なのだ。日本で言えば、戦後の復興から高度成長に突入した頃と同じなのだろう。
 シンガポール航空でシンガポールへ向かう。今回は、これで3回目のシンガポール航空、つまり飛行機での移動はすべてシンガポール航空ということになる。
 ウクライナ上空で撃墜されたのも、インド洋で行方不明になったのもマレーシア航空だ。スーツケースはへこまされたが、シンガポール航空でよかったのかもしれない。
 客室乗務員には日本人女性もいるが、多くは東南アジアの女性である。顔つきは見てすぐ東南アジア系と分かるが、近くで見ると、やや褐色の肌はとても美しく、民族服の下のスタイルも均整がとれていて魅力的だ。この職業は現地の女性にとって憧れなのではないだろうか。
 出発ロビーで無料のWi-Fiに接続してメールチェックなどをした。この操作にもだいぶ慣れてきたな。
 機内に入るとき、英字新聞をもらった。早速機内でぱらぱらとめくると、面白い記事がいくつかあった。先ず、がんが発見されてからの5年生存率の国別比較。日本、米国、ドイツと比較している点が面白い。ベンチマークとしてこの3国をマークしていることになる。当然日本の生存率はきわめて高い。次に、女優の原節子の死亡記事が写真付きで大きく出ていた。最後に、日産のインフィニティの広告に出ている価格である。日本なら500万円くらいするクルマだが、シンガポールでは、15万ドルつまり1500万円くらいである。日本の3倍を実感した。
 昼食は機内食で、揺れている間に慌ただしく摂った。
 研修最後の公式行事は、講演とさよならパーティだった。
 会場には、3ヶ所に分かれたグループが集合しておこなうため、最も遅い到着グループに合わせてスタートする。我々は最も早い到着グループだったので、2時間ほどの自由時間が与えられた。今回の旅で仲良くなった3人の講師で、ラッフルズモールへ行くことにした。
 モールは日本のイオンモールと酷似していた。
 既に疲労感を漂わせていた私は、休憩したカフェで待つことにし、その間に2人はショッピングに出かけた。カフェで待つ間に、また無料のWi-Fiに接続して、メールチェックなどをして過ごした。キャロットケーキが甘くて美味かった。
 会場に戻ると、近くにランボルギーニ・ガヤルドを発見したので、私は写真を撮りに行った。
 会場はウォーターフロントにあり、眺めも非常に良かった。
 1週間も一緒に旅をしていると連帯感も一体感も生まれてくる。さよならパーティは、「創造の船」のテーマソング「昴」で締めくくられた。
 再びバスでシンガポール空港へ向かった。
 ゆっくり買い物をしている時間はなかったが、帰ってからのことを考えると、もう無理はできなかった。
 午前1時過ぎの深夜便で帰国の途についた。

11月28日(土)「帰国してからも色々・・・の風さん」
 午前8時15分にセントレアに着陸した。しっかり眠れたので、予想外に元気だ(と思った)。
 早朝なので、空港内は空いていた。入国審査もスムースに終わった。スーツケースを受け取り、税関を通過するとき、担当者が目ざとく私のスーツケースのへこみを見つけ「どうしたのですか」と聞いてきた。好意から言ってくれたことが分かったので、海外で起きたことで既に対処していると応えた。
 予定では8時59分発のバスに乗るはずだった。ところが、バスターミナルにはそれらしきバスはなく、係員に尋ねると、もうそのバスは運行していないとのことだった。
 遠回りになるが、9時17分発の電車に乗ることにした。
 余裕で乗って10分ほどしたとき、とんでもないことに気が付いた。パスポートを入れたカバンを電車の待合室に忘れてきたのだ。もちろん原因はボケ以外のなにものでもない(やはり疲労もあったろう)。急いで車掌に駅に伝えてもらうようにお願いし、私は次の駅で降りた。
 10分ほど待って鈍行がやってきた。それに乗って、中部国際空港駅へ向かう間、もしカバンがなかった場合のことを頭の中でシミュレーションした。警察への盗難届に加えて、パスポート紛失の連絡も必要な気がした。
 幸運にもカバンは駅の事務室で保管してあり、名前を言っただけで渡してもらえた。命拾いした気分だが、日本のありがたさを痛感した。
 10時17分発の電車に乗った。またさらに予定より1時間遅れたことになる。
 最寄りの駅に着いたのは、11時過ぎだった。トールペインティングの教室の真っ最中だったワイフが、わざわざ迎えに来てくれた。助かった。
 自宅でホッとひと息ついている間に、療養中の長女と相談し、次女から譲ってもらったチケットつまり中日ドラゴンズのファンフェスタに行くことにした。ワイフのアクアを借りて、いつもの途中駅まで行き、それから電車と地下鉄で名古屋ドームへ向かった。
 天気はよかったが、さすがにシンガポールより寒い(当たり前だ)。
 昼食がまだだったので、たこ焼き、焼きそば、照り焼きバーガー、フライドポテトを買ってからドーム内外野席に入った。グラウンド内のあちこちで2千人限定のファンとの交流がされていた。空腹をいやした後、今度はソフトクリームを買って、内野席へ移動した。今日はほとんど自由席である。
 運動会のようなアトラクションが始まった。これには笑えた。
 続いて、ホームとビジターに分かれてホームラン競争が始まったが、プロのくせにホームランが出ない。引退した谷繁監督が代打で登場し、彼ひとりスタンドに放り込んだのには驚いた。インタビューのマイクを向けられてひと言「基礎ができていますから」には感心した。
 すっかり暗くなった外はさらに冷え込んでいた。来た時と逆のコースをたどって家路についた。
 夜、やっと家族にお土産を渡すことができた。
 ワイフ、長女、次女それぞれに考えていた品物を渡したが、どうやら狙い通りだったらしく、喜んでもらえた。まだ私はボケていないようだ。
 帰国した今日は、執筆マシンを立ち上げないまま就寝した。バタンキューだった。

11月29日(日)「12時間睡眠後・・・の風さん」
 午後になってやっと起床した。
 12時間の睡眠である。それだけ疲労困憊していたのだろう。
 窓の外の柿の木を見ると、実が数えられるほどに減っていた。確実に日にちが経過していたのだ。
 さらに車庫の屋上の物干し場に私の下着類が盛大に翻っていた。
 納豆うどんの昼食を摂った。何となく日本にいる気分が満ちて来る。早くも石油温風ヒーターも稼働していて、冬を実感する。
 やっと執筆マシンを立ち上げたが、やることが膨大にあった。
 その間に、宅配で、事前手配してあった土産物などが届いた。万が一、現地で土産物が買えなかった場合のことを考えた手配だった。
 バイトから早く帰って来た次女も含めて、久しぶりに4人で夕食を摂った。長男は京都で今頃何をしているのだろう。
 先週末に書店に並び出した新刊『トコトンやさしいコンカレント・エンジニアリングの本』は、あちこちに宅送もされている。その反応もボチボチ来始めた。文芸と違うので、贈呈先は微妙に違っている。
 文芸作品は出版によって講演につながるが、今回のビジネス本はセミナーにつながると思っている。頑張らねば。
 執筆の仕事に着手する前にもう就寝時刻になってしまった。
 明日は、旅行保険会社に電話してみよう。

11月30日(月)「久しぶりにキャメロンを走らせた・・・の風さん」
 今日もたっぷり寝て起床した。庭の柿の木の実がまた減っている。寒くて布団から出たくない。先週の南国生活が夢のようだ。
 自分で入った旅行保険会社に電話してみた。どのような対応をしてくれるのか説明してもらった。シンガポール航空の対応を確認してから判断することにした。
 午後、キャメロンで出かけた。久しぶりにエンジンを始動させたが、まったく問題なかった。月末に富山に行くので、スタッドレスタイヤを手に入れなければならない。しかし、今週は選定している余裕がなさそうだ。
 キャメロンで出かけた目的は、「創造の船」を主催している中産連とのお付き合いのきっかけを作ってくださった方への帰朝報告と新刊を差し上げることだった。1時間の面会だったが、相変わらず業界トップの話題がいっぱいで、私には驚きの連続だった。
 ここ1週間は、フェースブックに近況をアップしていた。またしばらくフェースブックとは無縁になりそうだ。
 今日もメールチェックや気まぐれ日記の更新で1日が終わってしまった。明日から真剣に作家生活に戻らねば。

2015年12月はここ

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